そろそろコンクールの季節ってこともあって、なにか思うことを適当に書いていく記事にしようかなと思っていたんですが、最近また
- 「吹奏楽コンクールは本当に音楽なのか」
- 「点数をつけて音楽を競うなんておかしいんじゃないのか」
とかっていう毎年おなじみの議論をTwitterで見かけたので、今回はちょっとそういうお話を。
主に
- コンクール至上主義派
- 音楽は楽しく演奏するのが大事派
などの登場人物が居て、彼らのポジションについてもちょっと考えてみたいと思う。
ざっくりと僕の考え
そもそも論だけど、僕はそういった「答えを出す必要がない議論自体、やる意味がない」と思っているタイプです。普段からニュースや話題のネタに対してTwitterでもブログでも一切言及していないのはそういう理由で、もっとぶっきらぼうに言うと「どうでもいいから」です。「興味ない」も近い。
しかし今回はもうちょっと掘り下げてみます。
まず僕は基本的にコンクールが大好きです。超好きです。今でも一年に一度の楽しいイベントとして楽しみにしているし、今くらいの各団体の曲情報とかが分かってくる時期なんかは特にワクワクする。はやく全国聴きたいな~って。
まあこれには一年に一度、日本中に散らばった友人たちとまさに「一堂に会する」みたいな感じでコンクール会場で会える、前夜に飲み会できる、とかそういう楽しさもあるからなんだけども。
※この辺は「コンクール=全国大会」みたいなニュアンスです。
まあそれはさておき、吹奏楽ファンとしてはこんなに盛り上がれるイベントはそうそうないです。だってどの演奏も上手いんだもん。アツい。
それだけのハイパフォーマンスな演奏をたくさん聴いて、「ここはいいな」「あーあっちもいいな」とかってなれるのって、単純に素敵じゃないですか?
演奏として上手いから聴くのが楽しいし、その演奏に対して音楽的に感動できるんです。
今回の話は実はここがポイントだと思ってます。
音楽的に感動する、ということ
今回の件にしてもそうなんだけど、こういう議題で色んな派閥の人が同じ論争を繰り返し続けてしまう原因のひとつに「明確に線引き出来るものがない主観的な"なにか"」について話をしているから、ということが言える。
音楽ってそういうものだっていうのはみなさんもよく知っていることだと思います。例えば数値化して厳密に比較するとか、そういうことはできないわけだよね。
となると、音楽が演奏されたものに対して「上手かった」とか「下手だった」とかっていう定義は基本的にはできない。数値化なんておろか、人間同士で共有できるなんらかの基準なんてものもないに等しいでしょう。
でも多くの人が聴いた結果多くの人が「これは良い演奏だった」と思われる演奏は確実にあります。
その演奏がすべての人に「良いものだった」と思われるわけではないけど、その人数が極端に多くなる演奏は絶対にあるんです。これはもう確信している。
しかしそれは、単なる演奏技術の良し悪しだけで語られるものではないんです。これも事実。
この「演奏技術の"上手さ"と音楽的な感動」というものの関係についてはまた長くなりそうなので今回は割愛したいところですが、大事なのは少なくとも「感動的な演奏」は確かな演奏技術のもとで生まれるということだと思います。
僕はこれまで楽器を続けてくる上で、「自分がしたい音楽を表現するために技術を習得する(=楽器を練習する)」という考え方を何度も教え込まれてきました。ここからするとこの理論もそれなりに正しいと思っていて、「伝えたい音楽を表現するためにはある一定の技術はやっぱり必要」だと思う。
補足。
おそらく今みなさんの中には「技術的にまだまだでも感動できる音楽はある」と思っている方もいるはず。
もちろん100%同意です。毛ほども反論しないです。
むしろそういったシーンには僕もこれまでにたくさん恵まれてきているので、十二分に理解できます。音楽の持つ素晴らしい力の1つですよね。でも今回の件とは「路線が違う」と思っていてまた別種の話だと思うので、一旦置かせてください。
そんなわけで、音楽のコンテストという場である以上それが「演奏技術を競う場という側面も持つ」ということは、前提として僕たちが分かっておかないといけないことだと思うわけです。
コンクール至上主義派閥がいる理由と彼らが嫌われる理由
冒頭で登場人物紹介をしたうちの一派、「コンクール至上主義派」ですが、彼らの主張はこうです。
「コンクールの結果が全てであって、勝ち負けが絶対」
細かく見るともうちょっと色んな派閥がいるのかもしれないけど、端的に言うとだいたいこうなるんでしょう。とってもシンプル。でもいかにもすぐ炎上しそうな雰囲気を孕んでいるのも容易に分かります。
「結果が出る以上それで比較すべき」という考え方で、ここだけを見ればまあ分からなくもないんだけど、
- 題材が音楽である
- 吹奏楽部という部活としての取り組みである
などなどの事情により、よりやっかいな状況を呼び込むことになるんですな。ここはまたあとで。
で、彼らはなんで出現するのかというとこれもとてもシンプルです。
自分たちがコンクール至上主義でやってきたから、に他ならないのではと思ってます。
頑張ってきた人ほどその努力を認めてもらいたい欲求が強くなるのは当然だし、そうなると結果を出していない人たちを見ると「自分たちの方が上だった」という思いが出てきてしまうのは仕方ないと思います。
僕もゴリゴリの吹奏楽強豪校・一般バンドにいたので正直その気持ちは理解できます。全国で金賞を取ったらやっぱり「やった!」って思うんだよね。
中には「打倒◯◯高校!」とか書いたハチマキを巻いて先生や外部指導者に「◯ね」とか言われながら地獄のような練習をしている学校もある。マジですこれ。そういうとこに比べたら僕は全然音楽に重点を置いて活動させてもらえる環境だったけど、それでもコンクールで上を狙う以上どうしても「力関係」を意識せざるを得ない。
そうなると、やっぱり結果論というか勝ち負けで結論づけるような考え方が養われていってしまうのはしょうがないと思ってます。僕はこの記事の中でも中立を貫く精神でいますが、おそらく言葉の端々にそっち側の人間である雰囲気は漏れているだろうなとは自覚しています。そこは…ごめんなさい。修行不足だ。
まあとにかくここで言いたかったのは「コンクールの結果論派は、自分たちのそういった経験が元になってその考えを強くしてしまっているのでは?」ということでした。
「楽しい」の捉え方で喧嘩が起こる
さて、立場は変わって「コンクール至上主義反対派」、もしくは「音楽は楽しく演奏するのが大事派」。
さっきまでの話を継続して考えると、それを否定する人たちがどういう立ち位置にいる人たちなのかも自ずと見えてきそうですよね。
ただ、今みなさんが予想したであろう「コンクールで良い成績を取れなかった人たち」と僕は言いたくはない。その言い方は僕自身がコンクール至上主義派である物言いに聞こえるし、そもそもこれ以外にも否定派の人はたくさんいると思うから。
コンクールで上位の成績に至ったことがない、そこまでコンクールに注力している部活じゃなかったなどの人が実力主義の結果論派となるのは正直考えにくいです(いるとは思うけど)。
でもその逆は色んなパターンがあると思っていて、さっきも言ったように「コンクールにそこまで傾倒しなかった人たち」を中心に、もちろんコンクールで延々トップの成績ばっかり取ってる人だっているでしょう。
その「コンクールそこまでやってないよ」組の彼らからすると、「自分たちは自分たちで楽しく音楽をやってきて、それでとても楽しい思い出になっているし立派な音楽活動だった」と思えているところに、よく分からん"コンクールとかいうもの"の成績が良くないならそれは音楽じゃないとか言われたら、そりゃキレますよね。
ここが今回の議論の火種になっている一番の大元なんじゃないかと僕は思っている。
もちろん明文化されてこんなところまで言い合っているケースはネット上でも見たことがないけど、一番奥に見え隠れしているのはこういう部分が原因で、おそらく両者の経歴とかをじっくり掘っていくとだいたいこんな構図になっているんじゃないかなと思う。
もちろん例外は多分にあることは承知しています。あくまで一般論の話で、なおかつ僕が勝手に考える意見なので。
そしてそして、「楽しい」というこれまたまた主観的な表現が油となってしまいます。
おそらくコンクールをがっつりやってきた人たちは練習がつらくても良い結果が出ることを楽しいと考える方向が強いだろうし(何度も言いますが実際にそれだけをMみたいに思っているとは思ってません。あくまで一般論です)、コンクールと距離が遠かった人たちは結果が奮わなくても部活として仲間と練習すること自体が楽しかったというでしょう。
ここについては僕も意見があって、もちろんどっちもです。
でも、正しい楽器奏法でもなく、演奏する音楽への知識や素養もなくだらだら適当に練習して、それを「楽しい」と呼ぶのはちょっと違うのでは、とは正直思っている。
ここは僕のコンクールをやってきた側としての考えが一番介入している部分だとは自覚しているんだけど、やっぱり「音楽を楽しい」と言うならちゃんと音楽と向き合った上で正しい楽しみ方をするのは前提かなと思うのです。
僕も中学時代は、いわゆる地域にいっぱいあるような弱小校だったのでそういう"楽しい"雰囲気はよく知っている。そこではなんだか「楽器を使ってなにか楽しそうなことをしているだけ」という感じで、自分たちが何を目的としてどういう活動をしているかの芯になるものがなかったように思う。ツールはなんでもよくて、別に吹奏楽じゃなくても、楽器を使わなくても良かったように思えてしまうんです。
そんな場で、吹奏楽のこともよく知らないのに「吹奏楽は楽しかった」なんて言ってたって、「それただの馴れ合いでしょ」と言われたら少なくとも当時の僕はなにも言い返せない。
甲子園に行けない学校でも間違いなく世間に通用する「野球」はやっていると思うんだけど、吹奏楽コンクールではなぜかそうなっていないのが実情です。僕も今まで色んな中学校に教えに行ったりしましたが、彼らは本当に「自分たちがなにをやっているか」もよく知りません。でもそれは仕方ないんです。指導者も分かっていないことが多いから。
コンクール1つだけを取っても、全国大会、もしくはその下の支部大会へ行けるレベル未満の人達からするとコンクール自体があんまり大したイベントに思われていないし、上位大会はどういう風に開催されていてどういう雰囲気で、どういう層が楽しんでるかとか、たぶん知らない。
まあここはまた大きい別の問題だし例によって割愛しますが、コンクールの捉えられ方については後のまとめでまた触れます。
コンクールは音楽なのか
今回の話題に関連して、「競っているものは音楽なんかじゃない」とか、「勝ち負けのために作った演奏は本当の音楽じゃない」とか言っている人がいますが、これだけは僕も言いたい、全っ然意味分からん。
一般論的な反論から入ってみると、まず「音楽のコンテスト」というもの自体は世界的に行われていることだし、プロもそうやって研鑽や経歴を積んでます。個々の技術が絡むものである以上それが評価されるのは自然です。
というか「その評価を高めたい!」という目的のもとみんなで良い音楽を創っていくこと自体が楽しいじゃないですか?根本は良い音楽を創るところにあるはずだけど、その結果良い評価がもらえるなら誰だってそれを目指すのでは?
それを考えると、「コンクールは音楽じゃない」なんて発言をする人って、例えば結果が出せない学校の本人たち、もしくはその親御さんたちだったりなんじゃないか、と思われたりするのは仕方ない気がします(実際にはどういう人たちなのかは知りませんけど)。
で、ここで1つ分かる問題があって、彼らの主張は音楽的な議論もともかくなんだけど、「吹奏楽部という日本でも超独特なコミュニティ」だけに限った言及になってしまっているところにも注目すべきです。
この点については上記記事でたくさん書いていますのでちょっと はしょりますが。
何が言いたいかというと、「単に音楽を技術的に競うことの是非」うんぬんより前に、「(主に未成年の子どもが)部活動としてやっている表現活動なのにそこに優劣をつけるなんて」という感情論が入っているんじゃないかということ。気持ちは分かるんだけど、それは甘えでは?と個人的には思います。なんか趣旨がズレている感じがある。
あんまり細かく言うと今度はいよいよ僕もコンクール至上主義派閥の人間になってしまうので憚られるんだけど、ここはちょっと筋違いだなとは前から思ってました。
コンクールだろうとなんだろうとそこで演奏されているものは間違いなく音楽だし、その上手い下手があるのは事実です。むしろ、「どういう練習をしてきたのか」とかそういうんじゃなく「一発勝負で技術(表現)を競う」という意味では公平性が保たれているとも言えるでしょう。
今まであんまりこの考えに乗り気じゃなかった人、もしくは考えたことなかった人も、「音楽にもそういう楽しみ方もあるんだ」っていう考え方なら絶対できると思うんですが、いかがですか?
結論
さっと終わらせるつもりだったのにこんなに長くなってしまうとはやっぱり吹奏楽業界恐ろしい…。
さて、ここまで来ると問題の本質が大分浮き彫りになっています。
まず大筋として、コンクールの捉えられ方が日本中でバラバラなことが問題。
甲子園と言ったら誰しもが勝つために野球を練習するよね。「毎日18時間も練習して涙流しながら頑張ってきたんです、だからトーナメント次行かせてください!」なんてこと言うやつがいたら「なに寝ぼけてんのや」となるわけです。
じゃあ吹奏楽はどうか。
一応公平な音楽的審査がされるような状況になっていて(ここはここで問題がありまくるくらいなんだけどとりあえず無視)、それによって結果が出るのは同じなのに「音楽はコンクールが全てじゃない」と言う人が出てきてしまうせいで、「負け惜しみだ」とかっていう心無いことを言う人も現れて議論が巻き起こる。
で、「明確に勝ち負けが数値化されないから納得がいきにくい」っていう序盤で話した問題も手伝って、この辺をさらにややこしくしているのよね。
というか数値化という意味では審査結果はなんらかの点数になって各学校に通達されるんだけど(全国など一部数字じゃない支部、地区もある)、これは顧問に紙ベースとかで渡されるので下手すると生徒が点数化されていること自体知らないケースも結構ある。講評の文章だけ読んで点数は伝えないとかね。
とにかく閉鎖的っていうかこういうオープンじゃない色んなもののせいで吹奏楽業界はよく分からんことになっているんです。そりゃ外の人からしたらさらに訳の分からんものに見えるのは仕方ない。「銀賞? 2位じゃん、すげーじゃん!」みたいな。
というわけで一応僕の結論をまとめておくとするなら、
「どの立場の人も言いたいことは分かるし、主張は理解できます。でも、ちょっと一旦立ち止まって相手の考えを推し量ってみてはどうですか?きっとお互いにもう一歩ずつ歩み寄れるはずです。」
みたいになると思う。
僕はコンクールオタクではあるけど、コンクール厨ではないです。お金を払って演奏会へ出向くことはもちろん、好きな吹奏楽団の定期演奏会に行ったりだってします。
そうやって色んな楽しみ方がある中で、コンクールっていう白熱した一種の競技みたいな場で吹奏楽を聴ける、あの熱気が好きなんです。もっとそうやって吹奏楽コンクールを純粋に楽しんでくれる人が増えればいいなと思ってます。
あとがき
吹奏楽の世界ってほんっっっっっっっっとに変わった業界過ぎて、こういうたった1つのネタに対して話をするだけでも補足とか説明とかをしないといけないことが多すぎる。全然本筋の話を進められないし、でもそこを知ってもらわないと説得力もないしで、かなり大変だと思った。
しかし色々偉そうなことを言っている僕も、環境と人に恵まれていなかったらその「吹奏楽を知らないのに吹奏楽は楽しかったと言う人たち」に入っていたわけで、やっぱり色々難しい問題だなと思います。文化としてまだ全然成熟できていないんだよなあ、きっと(しかし時間が経てば解決する方向にも向いていないのでまたやっかいである)。
吹奏楽に携わっている人と一言で言ってもその立場は本当に色んな種類があることは承知しているので、どうしてもその都合上僕の記事に反感を覚える人がいるであろうことも分かっています。でもそういう色んな考えを知りたい、呼び起こしたい、という思いもブログを始めた理由の1つなので、ぜひその思いをコメントに投げてくれれば幸いです。吹奏楽に限らずアンチとかも基本的に全部承認して返事してます。
そんなわけで、この記事を読んであなたの吹奏楽人生を振り返ってみた感想などなど、お聞かせください。
今年も楽しみだな。青森はもう宿取ったぞ!!
追記 (2019/11/13) :2019年の全国(大学と職一だけ)の感想を書きました。わりとクソみたいな記事ですが興味ある方はぜひお読みください~
吹奏楽の記事、興味深く読ませていただきました。社会人吹奏楽パンドに所属しているフルート歴15年のよねです。
学生のころは吹奏楽部に長く在籍することなく、その後15年のブランクを経て楽しみのためにバンドをに入りました。が、ここにきてバンドの方針?が変わったのか、実力が露骨に求められるようになり、楽しく感じなくなってきました。長く続けてきただけに、その変わりぶりにショックが大きく、最近は合奏参加も怠けています(個人では毎日吹いていますが)どこに向かおうか立ち止まっているところに、こちらの記事に出会いました。
今からでも猛練習して上手くなれば良いのか!と思い、毎日吹き始めたら今度は腱鞘炎の一歩手前になり(笑)年齢的な限界も感じずにはいられません。
でも私は吹奏楽の世界を知らなかったので、その中で生きてきたメンバーの考えを少しは理解できた気がします。ある程度はうまくないと音楽的な完成度に貢献できないし、そういう楽しみが得られないのは分かりましたが、やはり独特な一面もあるのですね。
ありがとうございました。
とても丁寧なコメント、ありがとうございます。
しかも自分とは違う立場の方でいらっしゃる(と思われる)のに、記事の言いたいことにちゃんと寄り添っていただけているようでとても嬉しく思います。
ちゃんと書いていなかったのですが、僕も結果だけを追い求めるようなバンドはもちろん好きではないです。在籍していたこともないです。例えば入団にオーディションがあったり、吹けない人は容赦なく合奏を追い出されたり、コンクール以外の行事は大事にしなかったり…など。でも音楽や団体の活動そのものを楽しみながら実力の向上も狙う、そして結果も狙う、というアプローチは絶対あるんですよね。「やるからにはちゃんと上を目指すべき」というのはこういうニュアンスでした。
ただしおっしゃるように独特な一面が強く(これは特に学校の部活のほうですが)、特に周りの人からは理解されない世界だとは思います。難しいですね。